伝建群地区の空き家・空き店舗を片付け 倉吉市の町並み保存会とボランティア 「活用の道」を模索

空き店舗内部で進む荒廃

 「中心市街地はかなり崖っぷちの状態。このままではいけない」。明治後期から建つ倉吉市内の空き店舗の片付け作業が、このほど多くの市民ボランティアが参加して行われました。

 コロナ禍が明け、インバウンドを含む観光客の姿も少しずつ増えて来た倉吉市の白壁土蔵群・赤瓦地区。観光地化の一方で、高齢化・人口減少は進み、中心市街地では空き家・空き店舗が目立っています。このため倉吉町並み保存会(矢吹泳司会長)では昨年秋、新たに保存活用部会(部会長・平守同保存会副会長、3人)を設け、こうした空き家・空き店舗を活用する道を探っています。

 活動の第一歩は、店舗内部の片付けから。倉吉市東仲町のチャレンジショップ「あきない塾」に隣接した「ノグチ洋装店」は、かつて材木屋として繁盛。その後、楽器・レコード店、洋品店とさまざまな商売を続けてきましたが、7、8年前に閉店、今はだれも住んでいません。建物2階の外観にはピアノの形を連想させるタイル張りの造作。大正から昭和にかけて流行したアールデコ調の「看板建築」が、楽器店だった往時の面影を感じさせます。

 「空き店舗内部は年々荒廃が進み、片付け作業ではたいてい4トンから6トンもの不用品が出てきます」と話す部会メンバーの中山晶雄さん。実家は商店街にある老舗の津田茶舗。祖父は店を営みながら本通り商店街のアーケードも設計しました(2007年に老朽化で撤去)。空洞化していく倉吉の現状が気になった中山さんは、千葉県からUターン。家業を継ぎながら町並みの保存活用に取り組んでいます。

「倉吉の特長は高い文化性」

 「さあ、何から片付けようか」。軍手にマスク、作業着姿の市民が次々集まってきました。その中には元倉吉市文化財課長、真田廣幸さん(倉吉文化財協会長)の姿もありました。1998(平成10)年、倉吉市の打吹玉川地区が文化庁の重要伝統的建造物群保存地区(伝建群地区)に指定された時に尽力した一人です。指定当時から、保存するにしてもどの時代が基準か、保存と市民生活・商売と両立は可能か、いろいろな議論がありました。

 中山さんは「倉吉は『レトロの町』と言われますが、昔のものがただ残されているだけではありません。このノグチ洋装店もそうです」と店の奥を案内してくれました=写真=。一階の居住スペースには材木屋時代の名残の大金庫、石燈籠のある中庭や「太鼓橋」を模した渡り廊下など古風な作りですが、一方、二階に上がると天窓のあるハイカラな漆喰塗りのモダン建築で、とても一軒の同じ店とは思えません。

 「倉吉の人々はその時代の文化をどんどん取り入れて商売して来ました。この町の特長は高い文化性だと思います」と中山さん。こうして「復活」させた空き店舗を新しい借り主にテナントとして提供する橋渡し役も、同部会の活動のひとつです。実際、同市西町では古民家カフェがオープンしました。テナントの借り主は大阪からのIターン女性です。

世代の循環へ都市計画を 

 倉吉市の町並み保存は、牧田実夫市長時代の1980年代、市民や有識者による白壁土蔵群の保存活用の議論から始まり、町の景観整備や公衆トイレ・緑を活かしたまちづくりなど、当時としては先進的な施策に取り組みました。いわば今の倉吉の町のイメージの原型です。90年代には、青年経済団体を中心に滋賀県長浜市の「黒壁」をモデルにした観光街区「赤瓦」のまちづくり運動も起きました。

 その後、古い商家や医院を活用したワイナリーやブリュワリーも誕生、Uターンや移住者による出店は今もありますが、迎え入れる側の倉吉は、まちづくりの担い手の多くが引退、保存活用の取り組みはかつての勢いを失っています。「古くからの居住者と新たに出店する若い世代、うまくこれを循環していくには、民間のまちづくりだけでなく、行政も絡めた数十年単位の都市計画が必要と感じます」と中山さんは強調します。

作業をする人の中には、ノグチ洋装店の娘さんの田村陽子さんの姿も。この家で独り暮らしだった92歳の母親を湯梨浜町の家に引き取りました。「皆さんの力で店がよみがえり、倉吉の町の役に立てば、これほど幸せなことはありません」と感謝の言葉を述べていました。保存活用部会では、不用品の中から使えるものを仕分け、18日に商店街で開かれる「長谷の観音市」で販売する予定です。

 赤瓦が美しい倉吉市の中心市街地。古い景観を守りながらも、人でにぎわう町並みを維持するには町の人々と行政の不断の努力が大切です。